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ロシア旅行記 ラスコーリニコフのペテルブルク その3

最初に『罪と罰』の小説を読んだ時、
ロージャやソーニャたちの生活のあまりの惨めさに、
また、道を歩けばポン引きや物乞いや酔っ払いに当たる猥雑極まる街の描写に、
僕は彼らの住むセンナヤ広場周辺を、場末感漂う吹き溜まりのような街だとイメージしてました。
例えて言えば『あしたのジョー』の泪橋界隈みたいな感じでしょうか。
蒸し暑くて空気が悪いということが度々強調されるので、一層そんなイメージが強まりました。
ロージャがよく散歩中に運河を眺めて物思いに耽ったりしますが、きっとその運河も、どんよりと濁って淀んだドブ川みたいな川なんだろうと想像してたのです。

そのせいで、後になってソ連時代に作られた白黒映画の『罪と罰』を見た時には、人物の背後に映っている街並の美しさに凄い違和感を感じました。
想像してたのと全然違う。こんなこざっぱりしたお洒落な街が、あの悲惨極まる地獄の街だとは……と。

ペテロケ48 ペテロケ49 ペテロケ50

特に綺麗だなと思ったのは運河沿いの景色です。
瀟洒な建物が整然と建ち並び、橋の欄干には精巧な細工の施された金属の手すりが据え付けられています。
こんな華奢な手すりでロージャの苦悩の重さを支えられるか、と思ったりなどもしましたが、
まあロシアの人たちが作った映画の方が、そりゃあ僕の想像よりは正しいに決まってますよね。
この美しい眺めの裏側に、目を覆わんばかりの貧困と退廃と悪徳がうごめいていたんだ、と考えると、それはそれで作品の読み方に別の味わいが加わったりするかも知れません。

実際に現地に行ってみると、やはり映画で見た通り、運河沿いの景色は美しいものでした。
貧困や退廃の面影は見当たりませんでしたが、それは遠い昔の話なんでしょう。


さて、そんな運河沿いの一角に、物語の中でも重要な場面の舞台になる場所があります。
ペテロケ51

4)ソーニャの住まい
ペテロケ52 ペテロケ53 ペテロケ55
これもまた随分イメージと違う……
というか、作中の描写に照らしてみると、場所が合ってるかはさておいても、この建物自体はソーニャが住んでいた建物とは別物のようです。どう数えても明らかに階数が違うので(作中では3階建て)。
ですが、後世に建て替えられたか、小説の中と現実とで建物の形が違うという可能性もあるので、一概に地図が間違っていると断定もできません。

因みにソーニャの住んでいる部屋については作中で間取りなどの詳細な描写があり、それによると部屋の形が普通の正方形や長方形でなく、壁が斜めに交わって一つの角が鋭角に、向かいの角が鈍角になっている、つまり台形の形をしていたことが分かります。
ソーニャの部屋のその特徴に倣って、僕の漫画の中でもエチカのアパートの部屋の形を台形になるように描いてるんですが、多分そのことに気づいてる読者は世界中に一人もいないだろうな。パースが若干複雑になるので、明らかに一手間余計にかかってるんですが。
もし誰か気づいて下さってた方がいたらご一報下さい。

しかし一見豪華な造りなのに、よく見ると壁とかボロボロですね。修繕とかしないのかな。
ペテロケ54

*追記
やっぱりこの建物はソーニャの家ではなかったみたいです。
詳しくはこちらの記事をご覧ください。



そのソーニャの住まい(?)から運河沿いに1ブロック進んだところに小さな橋が架かっています。
この橋が上に書いた、ロージャが物思いに耽っていた橋です。

5)N橋(ヴォズネセンスキー橋)
ペテロケ57
ペテロケ59 ペテロケ60
老婆殺しの後、数日間の昏睡から目覚めたロージャは、部屋を抜け出して夜の街を彷徨い、この橋で女性が身投げするのを見ます。
またその数日後、スヴィドリガイロフに会いに来た妹ドゥーニャとここですれ違います。
身投げの場面では、通りかかった警官が運河に下りて女を引き上げる様子が描かれていますが、
運河には下の写真のようにあちこちに階段があって、水辺に下りられるようになっています。舟に乗る時に使うんでしょうね。
警官が下りたのはこの階段か、
ペテロケ61 ペテロケ62
それとも反対側のこの階段でしょうか(右下の方)。
ペテロケ58


更に運河沿いに進んでいくことしばし……
ペテロケ56 ペテロケ63
ペテロケ64 ペテロケ65
ペテロケ69
上の写真、左手の青っぽい色の建物が…

6)警察署
ペテロケ66 ペテロケ67 ペテロケ68
反対側から見ると青と緑のツートンになってます。
多分現在では警察署じゃないと思いますが。

劇中でロージャがここを訪れたのは計3回になるのかな。
一回目は殺しの翌日、家賃の滞納のことで呼び出され、副署長と口論した後卒倒する。
二回目は彼を怪しいとにらんだポルフィーリーに呼び出され、あわやというところまで追い詰められる。
三回目は自首をしに。

向かいには船着き場。
ペテロケ72
センナヤ広場のすぐ裏なので人の流れも多いです。
ペテロケ70


運河の景観を守るためにボランティアの人が水面のゴミ拾いをやっていると、NHKの『ふれあい街歩き』で言ってましたね。
確かにゴミなどは殆ど見なかった気がします。
場末とか吹き溜まりとか、失礼な想像して本当にすみません。
ペテロケ71



ロケ地巡りまだ続く。
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18:33 | ロシア旅行 | edit | page top↑

ロシア旅行記 ラスコーリニコフのペテルブルク その2

ラスコーリニコフの足跡を辿る第二回。
ところでラスコーリニコフとタイプするのが少々めんどくさいので、
今後は愛称のロージャで表記を揃えたいと思います。
こっちの方が可愛らしくて親しみが湧きますよね。

今回はロージャの下宿から、質屋の老婆の家へ向かいます。

老婆を殺して金を奪うことを思いついたロージャは、実行前に何度か老婆の家へ下見に行きます。
その際に目的地までの距離を歩数で測ってみたというくだりは、
ロージャの偏屈で偏執的な性格と、恐ろしい空想を胸に抱えて揺れる気持ちを、シンプルな表現で見事に描き出していて、短い挿話ながら強く印象に残ります。

下宿から老婆宅まできっかり730歩。

本当にその歩数で歩けるのか、現地へ行ったら試してみたくなるのが人情というものです。
勿論僕も実際に歩測に挑戦してみました。
作中の記述(K橋=コクーシキン橋を渡り、ユスーポフ公園の脇を通る)からルートを割り出し、
長身のロージャとの身長差を考慮して、精一杯大股で歩き出しました。


ここから出発。下宿の前の交差点。
ペトロケ44 ペトロケ39
まずはストリャールヌイ通りを南へ。センナヤ広場の方へ戻ります。

100歩。
ペトロケ29

200歩。
ペトロケ30

300歩。
コクーシキン橋を渡ってグリボエードフ運河を越えます。
ペトロケ40

センナヤ広場を横切るサドーヴァヤ通りを右折。
400歩。
ペトロケ31

500歩。
ユスーポフ公園前を通過。右手のリムスキー・コルサコフ通りへ入ります。
ペトロケ32

600歩。
ペトロケ33

700歩まで来ましたが辿り着く気配なし。
ペトロケ34

800歩。まだ着かない。
ペトロケ35

900歩。まだまだ着かない…。
ペトロケ36

1000歩。ようやく直前まで来ました。
ペトロケ37

到着。1021歩。
ペトロケ38

やれやれ…。
ということは……
ロージャの歩幅は僕の精一杯の大股の、約1.4倍という計算になります。
いくら何でもそんなにか?
負け惜しみ言う訳じゃないけど、正直本当かよって思いました。
ドスト先生は実際この道を歩いてみられたんでしょうか?


そんな訳で『謎とき〜』の地図によると、この建物の建っている場所が、

3)金貸しアリョーナの住居
ペテロケ42 ペトロケ41
ということになります。

見た感じの第一印象は、随分小綺麗な建物だなあと……。
意地悪で強欲な、おとぎ話の悪い魔女のような雰囲気で描かれている老婆の住処にしては、随分あか抜けてて、おどろおどろしさも足りないですよね。
周囲の他の建物と比べても心なしかモダンな感じに見えるのは、一階に入っている商店の派手な看板のせいかも知れませんが、
ひょっとしたら劇中より後の時代に建物が建て替わっているのかも知れません。
仮に昔のままだったとしても、前回の記事でも書いた通り、
ドスト先生がこの建物そのものを老婆の家として想定していたのか、あるいは小説と現実ではそもそも全く別物なのか、それとも地図が間違っているのか、
本当のところは分かりません。


中庭への入り口はこんな感じ。随分軒が低いですね。
ペトロケ43

犯行後「門を出て左に折れた」と書かれているので、
ロージャが逃げ帰ったのはこの道かな?
ペテロケ45 ペテロケ46 ペテロケ47




小刻みに区切って次回へ続く。
09:37 | ロシア旅行 | edit | page top↑

ロシア旅行記 ラスコーリニコフのペテルブルク その1

ペテロケ23

さて、ペテルブルクはドスト先生が晩年を過ごされた街であるとともに、
小説『罪と罰』の舞台になった街でもあります。

センナヤ広場やネヴァ川、ワシーリエフスキー島など、実在の地名が作中に出て来るのは勿論のこと、
「S横町」や「K橋」のようにイニシャル表記になっている道や橋にも、ちゃんとモデルとなった実在の場所があります。
主人公ラスコーリニコフが住んでいたアパートや、老婆殺害の犯行現場なども所在地が特定されていて、
江川卓先生の『謎とき『罪と罰』』には、それらの場所を記した地図が載っています。
ペテルブルクに行ったら、ラスコーリニコフの歩いた街角を歩き、ラスコーリニコフが見た景色を見てみたいと、ファンなら誰しも思うところ。
僕も昔から映画のロケ地巡りとか大好きなので、地図のコピーを片手に散策に出かけました。

ペテロケ27 ペテロケ26 ペテロケ25

ところでこの『謎とき〜』版の地図なんですが、
現地に行ってみると、まずラスコーリニコフの下宿の位置が、実際の場所とは微妙にズレていることが判明。
そうなるとその他の物件に関しても、地図上の表示を無条件に信じていいのか怪しくなってきます。
地図が間違っているとして、地図だけが間違っているのか、元になった考察自体は正しいのか、疑い始めるとキリがないんですが、
まあ舞台の街は実在でも、登場する人物や事件は架空のものなので、その辺はあまり深く突っ込んでもしょうがないのか…。
他に参照出来る資料もないので、基本この地図を頼りに回ってますが、ひょっとしたら全然違うものを見ながらああだこうだ言ってるのかもしれない、ということは一応前もってお断りしておきます。

それでは見て回った順にご紹介していきましょう。

ペテロケ28



1)センナヤ広場
ラスコーリニコフの下宿からほど近いところにある大きな広場で、劇中で何度となく、登場人物たちがこの周辺を訪れます。
物語の終盤で、ラスコーリニコフが警察署へ自首しに行く時ここに立ち寄り、ソーニャに言われたように「自分の汚した大地に接吻する」、その重要な場面の舞台にもなっています。

ドストエフスキー文学記念博物館に展示されていた、19世紀当時のセンナヤ広場の様子を描いた絵がこちら。
ペトロケ1
当時のロシアで最大の都会だったペテルブルクの中でも、特に人の集まる市場だった場所ということで、かなりの人出で賑わっていたことが窺えます。
今の日本で例えて言うと、渋谷のスクランブル交差点とかになるんでしょうか。

現在の様子はこんな感じ。
ペトロケ2 ペトロケ3 ペトロケ5
ペトロケ4
下段の写真のパルテノンぽい建物が、上のイラストの中にも描かれているのが分かりますね。
広場という名称は残っていますが、現在ではその真ん中を幅の広い車道が横切る形になっていて、市民が集まって思い思いに過ごしたり、催し物を開いたりするような、いわゆる「広場」ではなくなっています。

市場だった名残は周辺に軒を連ねる各種の商店に。
賑やかであること自体は昔と変わりないですね。
地下鉄駅の近くには大きなデパートも出来ていました。
ペトロケ6 ペトロケ8 ペトロケ7
ペトロケ9
ラスコーリニコフが接吻した地面はどの辺だったのかなあ……。



2)ラスコーリニコフの下宿
ペテロケ10 ペテロケ11 ペテロケ12
センナヤ広場の裏手から、運河を越えて北へ。古い街並が続きます。
2ブロックほど歩いたところにラスコーリニコフの下宿とされる建物があります。
ペトロケ15
辻に面した建物の角にはドスト先生のレリーフが。
下には「ラスコーリニコフの家」と書いてあるようです。
ペトロケ16 ペテロケ18
ペテロケ19 ペトロケ17
こうやって、ここがその建物だと分かるようになってるからいいんですが、
件の地図では実際の建物が建っている場所と通りを挟んだ反対側に印がついてるんですよ。
これから行く人はご注意下さい。
ペトロケ13 ペテロケ22 ペトロケ14
建物には今でも人が住んでるみたいです。
小説の中の記述では建物は5階建てだったはずなんですが、
これは見たところ4階建てっぽいですよね。
下の方に見えている半地下っぽいところも入れて5階なのか、
下から見えない屋根裏部屋があって、そこも含めて5階なのか、
そもそもモデルにしたというだけで、厳密に同じ建物ではないのか、
ひょっとしたら当時とは別の建物が建っているのか、
そこら辺の事情は全く分かりません。
ペテロケ20
因みにこの上の写真を見て、1824年に建った建物なのかと勘違いしたんですが、後から調べてみると、
1824年11月7日にこの高さまで水が来た、と書いてあるようです。
河口の沼地を埋め立てて造られたペテルブルクの街は、昔から度々水害に悩まされていたそうです。
ペテロケ21
下宿の前の通りです。
この道をドイツのシャッポをかぶったラスコーリニコフがウロウロしてたんですね。




長くなるので次回に続く。
22:40 | ロシア旅行 | edit | page top↑

ロシア旅行記 ペテルブルクのドストエフスキー

こちらがペテルブルク滞在中に泊まっていたホテル「モスクワ」です。
ペテルブルクなのにモスクワ。何でだ。
ペテド13

ホテルの手配は完全に旅行会社にお任せだったんですが、
別に頼んだ訳でもないのに、ドストエフスキー先生の眠る墓地から直近の宿を取ってくれました。
通りを挟んで向かい側くらいの位置関係です。通りは大分広いですけど。
単なる偶然ですが、引き寄せられたんだと思っておきたい。
ホテルに着いて荷物を置いたら早速、この旅の一番の目的である先生のお墓参りをしに出かけました。



墓地の名前はチフヴィン墓地といって、
ロシアの歴史に残る著名人、文化人らが数多く葬られている場所です。
いわばセレブ墓地。

ペテド1 ペテド5 ペテド40
ペテド39 ペテド2 ペテド3
先生のお墓は上の図の51番。
案内板を頼りに進んでいくと、特に探し回ることもなく、あっさり辿り着きました。
雨の中でついにご対面。
こちらがドストエフスキー先生のお墓です。

ペテド4

人類の歴史に残る偉大な作家のお墓にしては、意外に質素だなという印象です。
セレブ墓地と言っても敷地はそんなに広くなく、
このお墓も園内の小道沿いにごくさりげなく置かれているので、
そんな大物がここに眠っているとは、俄には信じられない感じ。
それでも、あのドスト先生がここに、と思うと、
自然と神妙な、襟を正したい気持ちになります。


何はともあれ、このためにはるばるロシアまでやって来たのだから、
一番の目的を果たさねばなりません。
『罪と罰』を漫画の原作として使わせていただいたご報告とお礼、
そして無茶な翻案を施したことのお詫びを、心の中でお伝えしました。
多分僕の心の声は天国の先生に届いたと思います。
僕の心の耳には、先生のため息と小さな舌打ちが返ってきました。

ペテド12 ペテド10 ペテド11

お墓には花が供えられ、僕の他にも団体客や個人で見に来ている人がいました。
やはり人気は高いようです。


ロシアの有名人と言っても日本人には馴染みが薄いですが、
僕の知っているところでは他に、チャイコフスキーやムソルグスキーなどの作曲家のお墓がありました。
下の写真で天使たちと戯れているのがチャイコフスキー。
隣の写真がムソルグスキー、更に隣はボロディンです。
ペテド6 ペテド41 ペテド42
ペテド7 ペテド8 ペテド9
この墓地にあるお墓は、それぞれに独自の装飾が施されていて、眺めて歩くのも面白かったです。


      *      *      *


午前中にお墓参りをすませ、午後からは街の中心部の近くにある、
「ドストエフスキー文学記念博物館」を見に行きました。
モスクワの「ドストエフスキーの家博物館」は、ドスト先生の生家を博物館にしたものでしたが、
こちらの「文学記念博物館」は、先生が晩年を過ごした終の住処を博物館として公開しています。
建物自体は普通の街中にあるアパートです。
ペテド15

展示の内容は、遺品や資料を通じて先生の生涯を紹介するというもの。
博物館の設備自体は、20世紀で止まってる感じのモスクワの博物館とは違い、
ちゃんと21世紀標準な感じでした。
モニターを使った解説や、音声ガイダンスもあり。
入場するとき英語の音声ガイダンスを勧められたのですが、聞いてる間立ち止まって動けなくなりがちなので、僕はそれを断ってしまいました。
でも中に入ってみて後悔することに。
展示物の説明文が例によって殆どロシア語のみなので、それがどういう曰くのあるものなのか分からないということがあまりにも多かった。
途中で引き返して改めてガイダンスの機械を借りようとしましたが、その時には閉館まであまり時間がないからもう貸せないと言われてしまいました。

そんな訳なので、以下博物館で撮って来た写真を貼っていきますが、
説明は主に後から調べたもので、曖昧なところや間違いもあるかも知れません。ご注意下さい。
何か間違いを見つけたらご一報を。
これまた例によって、館内が暗かったので写真によっては盛大に手ブレしてますが、それも雰囲気と思っていただければ幸いです。





ペテド21 ペテド23 ペテド24
まずはご本人の写真と、当時の状態を再現した先生の書斎です。
先生は亡くなる前の数年をこのアパートで過ごし、最後の長編である『カラマーゾフの兄弟』はこの書斎で執筆されました。
机の向かいに通りに面した窓があります。
執筆の合間に窓辺に立って、下を行き過ぎる人たちを眺めたり、街のざわめきに耳を傾けたりもしたんでしょうか。




ペテド32 ペテド17 ペテド49
左の写真は、最初の奥さんのマリア夫人。
次の写真は、二人めの奥さんでアンナ夫人。
アンナ夫人は『罪と罰』の執筆時、先生の口述を速記で写し取るという重要な働きをした人で、ドスト文学を語る上でも欠かせない人物です。
このアパートでドスト先生と暮らしたのはアンナ夫人の方で、右の写真は夫人の部屋です。




ペテド19 ペテド20 ペテド34
ペテド27 ペテド33 ペテド30
上段左は『罪と罰』の当時ものの本。
細かい書き込みは先生の字なんでしょうか?
隣は挿絵から察するに、先生の愛読書、セルバンテスの『ドン・キホーテ』ではないかと思います。
右は節ごとに細かく番号が振ってあるので、多分聖書じゃないかなと……。
下段は直筆の数々。
詳細は全く分かりませんが、書き手の超几帳面な性格が如実に伝わってきますね。




ペテド16 ペテド28 ペテド26
こうした品々も詳細は不明です。
当時ものなのかレプリカなのかも分からず。
右の写真は見たところ製図用具のようですが、ドスト先生が作家になる前、
工兵局製図室に勤務していた時の仕事道具ということでしょうか。
となると、
ペテド29
この図面はその当時に先生が描いたもの、とも取れるのですが、
ひょっとすると全く違う意味があるのかも知れません。
と言うのも、この図面はペテルブルク市内にあるペトロハヴロフスク要塞の一部を描いたものらしいんですが、
ドスト先生が一時期政治犯として投獄されていたとき、収監されていた場所が正に、このペトロハヴロフスク要塞だったのです。
そう思ってみると、図面中央の部屋割りされてる部分が監獄の独房っぽくも見えてきます。
図面の右上に1822年という表記があり、
先生が製図室に勤務していた時期とも、投獄されていた時期とも合わないので、
ひょっとしたらどっちも関係ないかも知れないんですが………

まあこれ以上曖昧なこと言うのはやめとこう……。


社会主義運動に関って死刑判決を受けたドスト先生は、
死刑執行の直前に皇帝の恩赦によって減刑となり、シベリアの流刑地に送られました。
これは皇帝の仕組んだ壮大なドッキリだった訳ですが、ドスト先生にとっては人生観を揺るがす大きな出来事でした。
ペテド18 ペテド43 ペテド44
左の写真は当時の死刑執行の様子を描いた絵のようです。
流刑地やそこでの労役の様子を描いた絵が右の2枚です。




さて、「多分〜」とか「〜かも知れない」とか、歯切れの悪い言葉が並び、
現物を見て来たくせに甚だ心許ないレポートが続きましたが、
最後に紹介するのは、絶対に間違いようのない、
極めて具体的なあるものです。
ドストエフスキー先生という人物が、
生身の人間として百数十年前にこの地上で、間違いなく現実に生きていた、
ということを、
はっきり目の前に見せて教えてくれます。

それがこちら、
ドストエフスキー先生のデスマスクです。

ペテド22

こういうものがあるとは予想してなかったので、
見た時はかなり衝撃を受けました。
こういう形で死者を記念するという文化は、日本人にはあまり馴染みがないですし(全くないとは言いませんが)。
先生がこの世に生きていたことの証拠として、
お墓よりもこちらの方が、生々しくリアルに心に残りました。
ああ、本当にいたんだなあ、と。





博物館の最寄り駅は、地下鉄のドストエフスカヤ駅。
駅の近くには先生の銅像もあります。
ペテド14 ペテド35 ペテド36
ペテド37 ペテド38
博物館の周りの街並も昔のままなのかな。
この道を先生も歩いたのかなと思うと感慨深いですね。




長くなりましたが、今回はここまで。
次回はペテルブルクで『罪罰』ロケ地巡り。
02:58 | ロシア旅行 | edit | page top↑

ロシア旅行記 ペテルブルクは雨

まるまる二ヶ月以上、間が空いてしまいました。
ロシア旅行記ようやく再開。
モスクワ編が終わって一息ついたところで、3月は確定申告など細々とした用事に追われ、
それが終わって落ち着いた頃には、去年の旅行はもう随分と過去の彼方に遠のいていました。
ここで終わってしまうと、尻切れとんぼどころか下半身ごと大切断の惨事になってしまうので、気を取り直して続行しよう。

ロシア旅行記後半戦、サンクトペテルブルク編、いそいそと開幕。


* * * * * * * *


モスクワからペテルブルクへは夜行列車での移動でした。
深夜にモスクワを発ち、翌朝早くにペテルブルクに着く特急列車「赤い矢」号。
四人一部屋の寝台車でロシアの人たちに混じって車中一泊です。
乗り込んですぐ消灯時間となり、寝ている間に目的地に着いてしまうので、
車窓の風景を眺めたり同乗者と話したりといった鉄道旅行の楽しみはあまり味わえませんでしたが、
車内は清潔で寝台も寝心地よく、乗務員さんの接客態度も大変丁寧と、乗り心地自体は非常に快適でした。
僕にはいつかシベリア鉄道で大陸横断の旅をしたいという長年の夢があるんですが、あちらの列車もこんな感じなら気持ちよく楽しめるだろうな、と思いました。

そんなこんなで薄暗い中、終点に到着。
ペテルブルクでは冷たい雨が降っていました。

ペテ雨1




サンクトペテルブルクは、モスクワに次ぐロシア第二の都市です。
ピョートル大帝がフィンランド湾に面した沼地を開拓し、街を開いたのが18世紀の初め。
帝政ロシアの首都として、西欧に負けない近代的な都市を、という意図のもとに造られました。
以来、ロシアの最先端の文化が集まる街となり、ドストエフスキーやプーシキンなど著名な文化人もこの街で活躍。
共産主義革命後、首都はモスクワに移されましたが、
モスクワが政治の中心なら、ペテルブルクは文化の中心として、
ロシアの中で独自の地位を占め続けてきました。

日本に例えると、モスクワが東京でペテルブルクが京都という感じでしょうか。
実際、ペテルブルクの街を歩いてみての第一印象は「古都の風情」という言葉がぴったりでした。

ペテ雨46
ペテ雨6 ペテ雨5
ペテ雨3 ペテ雨2 ペテ雨4


第二次大戦後、世界に冠たるソビエト連邦の首都として近代化に邁進してきたモスクワは、クレムリンなど古い建物もあるものの、やはり20世紀的な鉄とコンクリートの街でした。
一方ペテルブルクは、19世紀の古い街並が今もそのままの姿で残っており、街の中心部にも現代的な高層ビルなどは見られない。
大戦中、ドイツ軍の厳しい攻撃にさらされて、多くの古い建物が破壊されたはずなのですが、焼け跡に新しい建物を建てるより、昔の姿の復元に努めたということなんでしょうね。
鉄とコンクリのモスクワに対して、こちらは石造りの都です。

ペテ雨7 ペテ雨8 ペテ雨9
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ペテ雨17 ペテ雨18


通りを歩いていて思ったのは、僕がヨーロッパと聞いてイメージする街並は、正しくこんな感じだなということです。
僕自身のイメージの中の「ヨーロッパ」は、子供の頃に読んでいた児童書や少女漫画の世界観が刷り込まれたものだと思うんですが、多分そうした古き良き時代の風景が、ここには色濃く残っているということなんでしょう。
見た目が綺麗なのはいいとして、昔のままの建物だと日常生活では不便もあるだろうなと思ったんですが、
大通り沿いの商業ビルに入ってみると、外観は昔のままながら、中は最新の様式に改装されていたりして、
景観を守りながらも時代に即したものにしていく工夫がされているようでした。


ペテ雨19 ペテ雨20 ペテ雨21
ペテ雨22 ペテ雨23 ペテ雨24



街の人たちの雰囲気も、やはりモスクワとはちょっと違う感じがしました。
前にモスクワの人たちのことを「素っ気ないけど悪気もない。話してみると親切」みたいに書きましたが、
対してペテルブルクの人たちは、最初から物腰が柔らかく、普通に親切な感じの人が多かったような気がします。
それも京都っぽいと思った理由の一つ。
もっとも数日滞在しただけで、それほど多くの人と話した訳でもないので、決めつけは禁物かと思いますが。中にはツンケンした感じの人もいましたし。
いずれにせよ、歴史的にも諸外国に対して開かれた街であったこと、また今でも観光客が多く訪れることから、一般の人も外国人慣れしているという面はあるのかなと思います。
英語の通じる場面も多かったし、おかげで比較的リラックスして過ごすことが出来ました。

あとついでに言うと、モスクワに比べておしゃれな人が多いという印象でした。
モスクワでも美人が多いなとは思ったんですが、みんなお化粧がガッツリ濃いめで、服装もどこか20世紀風だった。
ペテルブルクの女性はメイクはあっさりめで、服装もちゃんと今風でした。
こんなにはっきり流行に差が出るくらい土地柄が違うのかな、と思ったことでした。
ちなみにモスクワ〜ペテルブルク間の距離は600キロ程度。東京から青森くらいの距離だそうです。


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ペテ雨36 ペテ雨38


モスクワ滞在中はずっと晴れてたのに、ペテルブルクに着くなり雨だったことが、二つの街の印象の違いを更に際立たせていたような気がします。
雨に濡れた古都の街並は何やら現実離れして美しく、僕は時間も忘れて夜中まで歩き続けました。
傘をさして震えながら撮ってるので写真も若干手ブレ気味ですが、臨場感ということで大目に見て下さい。

これと言って当てもなく気の向くままに彷徨っていただけなので、
思いがけずエルミタージュ美術館正面の広場に出た時には、
突然目の前に広がった幻想的な眺めに、思わず息を呑みました。

ペテ雨39 ペテ雨40 ペテ雨41





今回はこんなところで。
次回「ペテルブルクのドストエフスキー」へ続く。

ペテ雨42
22:21 | ロシア旅行 | edit | page top↑
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